さど知るっちゃ!佐渡の地理・歴史・文化・暮らしをご紹介

縄文時代~弥生時代

縄文時代~弥生時代

佐渡では縄文時代前期の終り頃の遺跡が一番古く小木の長者が平遺跡からは石鏃や石斧などが発掘されています。
弥生時代後期のものとしては千種遺跡から土器、石器、木製の鋤、狩漁用具などが発掘されてこの地方一帯に大集落があったことを物語っています。
このことから佐渡も日本の他の地方と同じくらいの古さから歴史が始まっていたことがわかります。

飛鳥時代~江戸時代

昭和36年まで佐渡海峡を往復していた幸丸

昭和36年まで佐渡海峡を往復していた幸丸

復元された千石船

復元された千石船

本土から人や文化が入ってきたのは8世紀頃からと思われ、真野の国府跡、国分寺跡、小木の蓮華峰寺、畑野の長谷寺など当時の古い建物が物語っています。

このことから今の市の区画のほとんどが、この奈良時代には完成していたものと思われます。

この頃の佐渡は「遠流の島」と定められ、都から多くの人々が流されました。

鎌倉時代には順徳上皇、日蓮聖人が、室町時代には観世流謡曲の観世(世阿弥)元清が流されています。

慶長6年(1601年)に相川の佐渡金山が発見され、徳川家康によって、幕府直轄地(天領)にされてから急速に発展し、日本全体からも大きく注目されました。

また金の積み出しや西廻り航路の寄港地として発展した小木など同じ佐渡でも歴史や文化に違いがみられ、興味深いものとなっています。

また、これらを物語る建物や資料が数多く残されています。

佐渡は大化の改新(645年)後、聖武天皇の頃に一国の扱いを受け国府が置かれて雑太、羽茂、加茂の3郡となったといわれています。この3郡制は明治29年(1896年)まで続きました。鎌倉・室町時代には地頭の支配を受けていましたが、天正17年(1589年)に越後の上杉景勝に領有されました。
江戸時代には徳川の天下統一によって幕府直轄地(天領)となりましたが、その財政を支えたのは佐渡金山の開発と繁栄でした。

その後、明治維新にともない、明治元年に佐渡県となり、後に相川県に改められましたが、明治9年に新潟県に合併されました。

佐渡金山

慶長6年(1601年)に相川町で巨大な露頭鉱脈が発見されてから相川金山の歴史が始まります。
当時の相川町は戸数20戸たらずの小さな農漁村でしたが、金が発見されて急速に発展しました。
最も盛んな元和年間(1620年前後)の頃には人口が10万人に達したといわれています。慶長6年といえば関ヶ原の合戦の翌年にあたり徳川幕府としてはその財政的な基礎を固める必要から開発に総力を傾け、以後250年にわたって幕府の直轄地(天領)として支配しました。
この山は昔、道遊山と呼ばれていましたが金の鉱脈を発見するために真中を掘り進み、とうとう山を真二つにしてしまいました。

この山肌には「狸掘り」と呼ばれるたくさんの穴があいています。これは坑夫が身ひとつで掘り進みそのまま後ずさりして抜け出た穴で、坑内にも多くの「狸掘り」の横穴が残されています。
天井や壁は魚油やカンテラの油煙で真黒にすすけておりノミやタガネで掘ったあとが生々しく無気味に残っています。
また湧水を処理するために多くの無宿人(流人)が送られ、水替人足として重労働を強制されましたが、この金山の排水坑道(湧水をすてるための地下の通路)である南沢疎水坑は、精密な測量器具のなかった当時(元禄4年、1691年)としては、世界的なトンネル工事として絶賛されています。平成元年3月まで採掘が続けられ、金鉱石を精錬するために二見港から、香川県の直島精錬所へ送られていましたが、平成元年3月をもって387年に渡る佐渡金山の金鉱石の採掘もついに幕を閉じました。

Q7. 金を採るために掘られた佐渡金山にたくさん残っている横穴は何と呼ばれているでしょう?

正解はD 狸掘り

歴史の中の登場人物

順徳上皇/じゅんとくじょうこう

順徳上皇/じゅんとくじょうこう

鎌倉幕府の執権、北条義時の討伐を計画して失敗された順徳上皇は、承久3年(1221年)に24才の若さで佐渡に流されました。(承久の変)
在島22年、都へ帰る望みも絶たれた上皇はこの地でお亡くなりになり、御火葬に付されました。
そのあとに桜と松を植え御火葬塚として現在でも宮内庁が管理し警護にあたっております。
天皇陛下をはじめ、皇族の方々が御来島の際には、必ず御参拝になられます。

日蓮聖人/にちれんしょうにん

日蓮聖人/にちれんしょうにん

鎌倉幕府や他の宗派を批判した日蓮聖人は、文永8年(1271年)に「悪口の科」により佐渡へ流されました。
当時の死人の捨て場所であった塚原の三昧堂に配所されましたが、それでも他宗の僧と法問をたたかわせ宗義の眼目である「開目抄」をあらわしました。
在島3年ののち御赦免になりました。

観世(世阿弥)元清/かんぜ(ぜあみ)もときよ

観世(世阿弥)元清/かんぜ(ぜあみ)もときよ

足利将軍の権力に反発したため、永享6年(1434年)に佐渡へ流された観世(世阿弥)元清は、猿楽を能楽に高めた人で能楽の祖といわれます。
在島中に「金島集十番」「佐渡七番」「壇風」などの名作を生んでいます。現在でも能楽は島民の娯楽として親しまれております。在島中に住まわれていたという正法寺(禅寺)は旧金井町にあります。

Q6. 佐渡の方言「遠流(おんる)の島」として佐渡の多くの人が流されてきましたが、流されてきていない人は下のうち誰でしょう?

正解はC 一休さん

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